三菱(i)のルーツを探る

 1959年10月、晴海で開催された第6回全日本自動車ショーに新しいコンパクトカーが展示されていた。三菱自動車(当時は新三菱重工)が第2次大戦後はじめて創った純国産車”三菱500”であった。全長3140mm、全幅1390mm、4輪独立懸架、モノコックボディで車両重量490kg。4サイクル強制空冷2気筒493cc、21馬力エンジンをリアに積むRR方式で、最高速度90km/h、燃費30km/L。翌1960年4月に39万円で発売された。ブルーバード1000が69.5万円。スバル360、スズライトが39.8万円であったから競争力はあったと思う。

 

 1960年は我が国の乗用車生産台数がはじめて10万台を超え、約16.5万台(内軽は約3.6万台)と前年の2倍超の急激な伸びを見せ、モータリゼーションを予感させる年であった。  一方、急速に高まってきた軽4輪自動車の需要に対応すべく、1961年4月に商用車”三菱360”ライトバンを発売。好調なことから、これをベースに三菱軽乗用車のルーツ”三菱ミニカ”が誕生する。全長2994mm、全幅1295mm、モノコックボディで車両重量490kg。2サイクル強制空冷2気筒359cc、17馬力エンジンをフロントに積み、後輪を駆動するFR方式で最高速度86km/h、燃費26km/L。1962年10月、39万円で発売された。

 

 実は”三菱500”立ち上げ時に三菱自動車は大震災に見舞われている。1959年10月24日に開催するショーに出展する車両準備の真っ最中、9月26日に上陸し5000名を超える犠牲者を出した伊勢湾台風の直撃を受け、工場全体が2メートル近く冠水。ショー出展予定車を含め、量産準備中の部品、設備などすべて水浸しになってしまった。従業員と家族あわせて100名以上の犠牲者を出す大惨事となった。死に物狂いで復旧に努め、ショー、量産立ち上げとも予定どおり実施している。今回の”三菱 i”の開発に際しても、厳しい逆境の中で、一時はダイムラークライスラー社の中止命令を受け、開発コードを変え密かに開発続行するなど、並々ならぬ努力の末、生まれたと聞くと、今回の受賞、心からおめでとうと言いたい。

著:当摩 節夫