ナビゲーション考

宮本 喜一

 カーナビゲーションの本質は、道案内の道具か、それとも電子地図なのか。

 何をバカなことをほざいているかとお叱りを受けそうだ。本論に入る前に、クルマの運転中、ナビの画面上の地図がどのように表示されているか思い浮かべていただきたい。つまり、「進行方向が常に上」(以下Hと呼ぶ)か、「北が上」(以下Nと呼ぶ)か、ということだ。私の知る限り、たいていのドライバーの場合前者であり、この場合の画面を見ると、クルマの挙動に合わせて絶えず地図が動いている。

 私事で恐縮。しかし私は一九九三年ころに初めてカー・ナビゲーションなるものを取り付けて以来、北を上にして使っている。それはあくまで、従来の紙の地図を広げ、それを見て自分の位置を確認しながらクルマを走らせる、という感覚にこだわっているからだ。この感覚からすると、世の大勢を占めている?Hは画面がしょっちゅう動いていて、というより踊っているようでいかにも煩わしいのだ。

 確かに、次の交差点は右か左か直進かを判断するのに、カーナビは何とも頼もしい。たどるべき道のことを何も考えなくても、運転にさえ集中していれば、目的地に着ける。安心。けれども、Nを正常と考える感覚からすると、このHの状態では、自分の位置を周りとの相対的な関係で把握することが困難になるのではないか。たとえば、初めて走る道の近傍によく知っている道や建物があっても、その存在が今の自分の位置や自分の過去の記憶とつながらない、ということが起こる。「カーナビを使うと、道をおぼえない」という理由のひとつはこれではないか。

 Nの画面の場合には、こういうことは起こりにくい。むしろ、道をよくおぼえる。走りながら、それまで自分の頭の中でつながっていなかったA地点とBの建物が結びついたり、意外な道のりを発見したりする。たとえ真夜中に初めての土地を走っていても、地図上の自分の位置を常に把握できる。真夜中はもちろん昼間でも、この安心感は何ものにも代え難い。Hの画面の場合は、真夜中不案内な土地の場合、目的地を入力して進行すべき道筋をカーナビに教えてもらう必要があるのではないか(クルマに乗るときは必ず目的地があるのだからなんの不都合もない、と反論されそうだ)。

 つまり、簡単に言えば、Hの場合はカーナビに道を教えてもらいながらドライブする、Nの場合は、マシンの地図を参考にしながら自分の判断にしたがってドライブするということにならないか。

 どちらの方式でカーナビを使おうが余計なお世話、と言われそうだ。しかし、公衆の面前で傍若無人の振る舞いをするのが日常になっている昨今、Hの場合も、「周りにどんなクルマがどう走っていようが関係なく、私は私の行きたい方に行ければよいのだ」という意識がドライバーの中に生まれ、それが交通安全とは逆の方向に作用するような気がしてならない。
カーナビは道案内の道具か、電子地図かという私の冒頭の問いかけは、実は以上のような考えから生まれてきたものだ。私は道案内の要素の強いHではなく、電子地図としてNを選択している。

 最後に蛇足。昨年、私の身内が沖縄でレンタカーを借りたときの話。カーナビの画面がHであったため、Nに変更してほしいと頼んだところ、担当者は全くお手上げだった、という。それほどNは非主流なのだろう。


最終更新日:2010/04/16