5月29日に行われた上記除幕式のご報告をしたい。多摩川スピードウェイは1936年に丸子橋上流の河川敷に建設された一周1.2kmの日本初の常設サーキットで、1936年6月7日の「第1回全日本自動車競走大会」を皮切りに1938年まで各種のレースが行われた。80周年を機に「多摩川スピードウェイの会」が記念プレートを作成川崎市に寄贈、当時の観客席がそのまま残る跡地で除幕式が行われた。
多摩川スピードウェイの会は、跡地保存、日本のモータースポーツ黎明期の歴史的意義の研究、将来に向けた情報発信を目的に2014年に発足した任意団体で、会長は第1回大会から日産チームメンバーとして参加された片山豊氏のご子息片山光夫氏(元RJC会長)だ。
除幕式は副会長の小林大樹氏の司会で始まり、福田紀彦川崎市長、ヴェテランカークラブ東京会長の堺正章氏などの祝辞に続き除幕が行われ、ホンダの協力により持ち込まれた1924年のカーチス号(エンジンは8LV8)と、第1回全日本自動車競走大会に出場した1926年製ブガッティT35Cが華を添えた。
第1回大会ではダットサンがオオタ号に惨敗、鮎川義介日産社長はレース途中で引き上げるが、4か月後の第2回大会にむけて4台のスーパーダットサンを作り上げた。第2回大会では練習中に大破したオオタ号が欠場、第3回、第4回レースは軍用車両の量産に追われた日産が欠場、日産とオオタとの戦いは実現しなかった。
空中を舞う「浜松号」と元ホンダ社長本田宗一郎氏の逸話も有名だ。若いころからアート商会に入りカーチス号の制作に携わるとともにレースにも参戦した本田宗一郎氏は浜松に移ってからはフォードシャシーに独自の過給機をつけたフォード4気筒エンジン搭載の「浜松号」を制作、第1回大会でハンドルを握り圧倒的な速さを見せるもののリタイヤ車に追突、空中に放り出された。
片山豊氏、本田宗一郎氏のこれらの経験を含め多摩川スピードウェイが日本の自動車産業の発展に寄与したことは間違いない。
除幕式。小林副会長の挨拶に続き、福田紀彦川崎市長、ヴェテランカークラブ東京会長の堺正章氏などから祝辞が寄せられた。
除幕されたプレートを囲む福田川崎市長、日本クラシックカークラブの山本英継氏、堺正章氏、小林大樹氏。
第3回大会の模様で22号車が小型車クラスで優勝したオオタ号。この時の観客席が今もそのまま残っている。